葬儀の基礎知識

室蘭市における家紋の調べ方とは?

室蘭市における家紋の調べ方について

室蘭市における家紋の調べ方について記します。家紋の歴史的な成り立ちや、室蘭の葬儀における家紋の扱われ方などについても説明いたします。

家紋の調べ方(直接的な方法) 

家紋の意味や歴史については後述するとしまして、まずは調べ方そのものを示します。

 その1:親や祖父母、親戚など年配の親族に確認する

 その2:紋付の着物が家にあるかどうか調べる(喪服や慶弔用ネクタイ、ふろしきなどにも紋が付いている可能性あり)

 その3:昔の家族写真に写っていないか確認する

 その4:家紋について先祖の書き残したものがないか確認する

その5:墓石に家紋が刻まれているか確認する

 その6:墓所を管理している団体(お寺や管理会社)に確認する

 その7:付き合いのある呉服店に過去台帳を確認してもらう

家紋の調べ方(インターネットを使用) 

周囲に確認する方法は時間が掛かるかもしれません。取り急ぎ家紋を調べたい時には、インターネットによる情報が頼りになります。

【家紋とは何か説明したサイト】

Wikipedia「家紋」

【家紋の一覧を見ることのできるホームページ】

Wikipedia「家紋の一覧」

【家紋の調べ方についての案内サイト】

#133 家紋がわからない際の調べ方【紋入れ・紋付・岡崎市・呉服屋】

(制作者 :おおがや着物チャンネル

【家紋の由来について、その歴史を解説するホームページ】

「家樹-Kaju-」公式サイト(家系図作成の専門会社)

家紋の由来とは?そのルーツから現代までの歴史を解説します。」記事

※詳細したサイトの記述内容はめもりあるグループの主義主張とは一切関係ありません。

ここでご紹介したサイトはほんの一例です。また、パソコンやスマートフォンにて「家紋一覧表」や「家紋の調べ方」などの言葉で検索してみると、解説するサイトがいくつか出てきます。

家紋とは何でしょうか? 

「源平藤橘」といった、天皇家とつながりのある源氏や平氏、藤原氏、橘氏といった氏族が強力な力を持っていた平安時代。各地に広がって住むようになった氏族が、他の同じ氏族集団との区別をするために、主に土地名を自分の屋号としたものが血縁集団である「家」を表す「名字」となっていきました。「家」を単位とした家制度のもとでは基本的に共通した名字の家族がひとつ屋根の下に暮らしていました。

日本における、家を識別するための目印としての紋を「家紋」といいます。名字でまとまる家ごとに定まっており、家族内で世代が替わる度に受け継がれるのが特徴。家のシンボルマーク、あるいはロゴマークといえば、イメージしやすいでしょうか。家ごとにロゴマークがあるというのは、世界の中でもユニークな文化。日本固有の紋章が家紋である、と言えます。

一般的な分類では241種類の家紋があり、個別の紋を入れると5116種類あるとのこと(Wikipediaより)。かつて存在し受け継がれずに消えた家紋もあります。ある研究によれば、これまでに2万5千以上の家紋が作られたのだそうです。

公家の家紋のなりたち

世界史的にみるとヨーロッパ各国と日本においてのみ紋章(家紋)は発展しました。家紋に関してヨーロッパと日本相互の交流はなく、それぞれ独自に発展したとみられています。

日本における家紋の発祥は平安時代にさかのぼります。当時、朝廷へ集まるために貴族たち(公家)が用いていた乗り物は牛車でした。多くの牛車の中から自分のものを判別するための目印として付けた文様が始まりと言われています。他に、当主が好んだ衣服の柄や植物などがモチーフになった例もあるようです。共通しているのは、家になんらかの縁のあるものをヒントとしてデザインされ、いつしか正式な家紋になっていったこと。

一例として、天皇と皇室を表す紋章として「菊花紋」がよく知られています。これは鎌倉時代に院政を敷いていた後鳥羽上皇が好み、身の回りの品々に付けたという菊の紋に由来しています。

武家の家紋のなりたち

平安時代末期の源平合戦の頃、敵味方を区別するための旗指物は紅白の色分けがなされる程度でした。鎌倉時代以降、武士たちの一族郎党(武家)それぞれの目印として、旗に紋を入れた「旗印」が作られるようになります。武具である兜や鎧にも自家の紋を入れて、戦場においてわかりやすくしました。後に家紋として家ごとに継承されていくことになります。

発祥としては他にも、陣幕の幕紋を由来とするものや、衣服に付けた文様を由来とするものがあります。

すでに家格が厳密に序列化されていた公家の家紋は、家の権威を表したり所有物の目印であること以外には使い道が生じず、さほど発展しませんでした。紋章で家を識別して戦場で名を上げる、といった発想が定着した武家においては戦場で判別しやすいようにしたい要望があることから、より実用的なデザイン性で家紋は発展しました。

江戸時代の家紋をとりまく状況

室町時代中後期以降の、各地で大名が群雄割拠した戦国時代を経た安土桃山時代。天下統一を成し遂げ、武家政権を打ち立てた豊臣秀吉は、家紋の規制を行いました。皇室の正式な家紋である「十六八重表菊紋」(32弁の八重菊紋)や、後陽成天皇から豊臣家に贈られた「桐紋」(五七桐紋)は権威ある家紋として、特別に許された場合を除き一般の家紋として用いてはならないとされました。

秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て徳川家康が天下人となり江戸幕府を開きます。戦乱の世が終わり、幕府が敷いた身分制度において「名字帯刀」が可能な者は資格を厳密に定めていました。権威の象徴として徳川家が独占する「三つ葉葵紋」以外の家紋について規制は緩くなりました。将軍や大名の家紋以外であればお咎めなしとされ、庶民の間まで広がった家紋。諸大名や幕府の高級役人などの家紋を表した書籍が、年鑑形式で幕末まで毎年刊行されるほどでした。商家(豪商)や農家(豪農)においても、武家を真似て羽織や調度品に至るまで家紋を印し、家の格式を誇るようになっていきました。現代まで続く老舗の家紋が「屋号」として引き継がれている例もあります。文字が読めなくとも判別できる家紋は、合理的な意匠として揺るぎない価値を持ちました。庶民は名字を名乗ることのできない身分であったからこそ、家や一族の標識として機能する家紋を、家ごとに大切にして代々受け継ぐようになったのです。ヨーロッパでは貴族階級などごく限られた者のみに家の紋章が認められなかったことと対照的に、日本では各階級で自由に家紋を用いました。裃や羽織など、礼装に家紋を付けるのが一般に慣習化したのが江戸時代です。元禄の頃から次第に華美なデザインの家紋が増えていったそうです。左右対照や上下対照、丸で囲った家紋が多く作られました。

幕末にはヨーロッパで日本の家紋が注目され、アール・ヌーヴォー(19世紀末から20世紀初頭の美術運動)期の絵画に取り入れられる例もありました。

明治維新後から現代までの家紋をとりまく状況

江戸幕府が倒れ、新政府に政権が移った明治維新を経て、菊花紋の権威が復活します。菊紋自体を法的に使用規制し、国として使うようになります。近代国家として陸海軍を整備した日本は、海軍では軍艦の舳先に菊花紋を飾り、陸軍では用いる小銃に菊花紋を刻印しました。明治以降盛んであった国粋主義や「家」意識の興隆につれて、墓石に家紋を入れたり庶民が紋服を着用したりすることが増えたのです。軍刀の柄に、オーダーメイドで自分の家の家紋を入れる将校もいたそうです。

昭和の半ば、太平洋戦争終結後には「軍国的」「封建的」とみなされるもののひとつに家紋がありました。衣服の洋装化がいっそう進んだこともあり、次第に国民の間で家紋は縁遠いものとなっていきました。それでもほとんどの家に家紋が伝わっており、冠婚葬祭で用いる礼服に家紋を入れる文化は依然として広く浸透しているのです。

令和の現在も皇室は「十六八重表菊紋」を使い続けています。日本国のパスポートには「十六菊」が入っていますし、「五七桐紋」は内閣や政府の紋章として慣例的に使われています。日本政府が発行する五百円硬貨にも桐紋が入っているので、身近に感じられるのではないでしょうか。

どうしても家紋がわからなかったら?

どのように調べても手がかりがない場合もあります。戦争などで一族の行方がわからなくなったり、文書が失われていることもあり得るでしょう。

実は、家紋について現在の法律での規定は一切ありません。家紋の意匠を管理したり認証したりしている機関も存在しません。あくまでも慣例的に用いられている、文化的な存在なのです。

新たに作成したとしても、誰からもお咎めがあるわけではありません。あなたが初代となり、新しい家紋を作って代々に受け継がせていくことが可能です。

とは言え、皇族や大名の家紋など有名なものと同じにした場合、血縁を問われることがあるかも知れず、予期せぬトラブルが発生する可能性もありますので勧められません。家紋の創出は慎重に行うべきでしょう。

室蘭における葬儀と家紋の関わりとは? 

室蘭の葬儀において、家紋が登場する場面は限られています。香典をいただいた時の返礼品に添える会葬礼状に家紋を掲載したり、故人が家紋に思い入れの強い方であった場合、祭壇の意匠として組み込んだりすることがあります。

室蘭においては会葬礼状に家紋を掲載する家はさほど多くありませんが、日本全国で見れば一般的に行われていますので、掲載することが特別なことではありませんからご安心ください。

めもりあるグループでは会葬礼状への家紋掲載を受け付けておりますので、お気軽にご相談ください。

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